桃園天皇の宝暦14年3月徳川九代将軍家重の代に当村の名主
渡辺兵左衛門・小川清右門がこの地に宮を建立したと伝えられる。
左馬頭義朝の霊を勧遷し村民の精神修養道場となるや暫時庶民の崇敬の的となる。
文化13年4月上和田信法寺14世住職の憧挙上人が氏子の賛同を得て、
五穀豊穣の祈願をなしたところ其の御神徳の偉大さに武家・一般庶民に深い感銘を与え、
以来五穀豊穣はもとより家内安穏の守護神として広く庶民の崇敬を得てきた。
御祭神 左馬頭義朝
鎮座地 大和市上和田1168番地
例祭日 毎年九月二十四日
元旦祭 一月一日
七五三 十一月十五日
神社名の由来 古くより相模の七鯖神社の一つに数えられ境川流域を挟んで位置しており 神社名も鯖大明神(宝暦十四年甲申)左馬大明神(文化十三年四月三日) 和田佐馬大明神(慶応二年十二月)と変遷し、明治四十二年七月に現在の 左馬神社となり村社に列せられる。 |
左馬神社の概要 神社の位置 大和市上和田三貫目1168番地 境内面積 3691.82㎡ 建物面積 本殿 4.96㎡(1.5坪) 拝殿 19.8㎡(6坪) 三社殿 9.5㎡(3坪) 神楽殿 5.94㎡(18坪) 神輿殿 19.8㎡(6坪) 鐘楼殿 4.55㎡(1.5坪) 手洗所 6.3㎡(1坪) 鳥居 石造り 2基 灯篭 一対 こま犬 一対 大銀杏 一樹 |
本社殿(本殿・拝殿) 古くは御神木の大杉(めぐり十一尺五寸)のそばに建立されて 宝暦の年から三回ほどの建て替え記録が棟札により確認されている。 現在の建物は昭和七年に建立されたものであり御神木の大杉は昭和二十七年に 枯損したため伐採され現在は存在しない。 また、樹齢七百年と云われる老松もあったことが記載されている(古文書より) |
三社殿 境内社として天照皇大神、神武天皇、須佐之男命の三神を奉斎したもので、 国土安穏と氏子崇敬者の安泰(疫病、痘癒、厄除)の守護神として崇敬されてき ている。社殿は三神をそれぞれ分けて奉斎しており向かって右側が神武天皇、 中央が天照皇大神、左側が須佐之男命が祀られている。 この社殿は昭和五十一年に改築されている。 |
神楽殿 従来より祭礼の日に猿楽・田楽を催し、近世では芝居や御神楽を行なう場所として 庶民の唯一の祝いの場所として来た。建物は昭和五十一年大修理をなし現在に至っている。 神輿殿(八坂神社お仮屋) 須佐之男命を奉斎する八坂神社は農民の五穀豊穣を願う守護神として崇拝されてきている。 毎年七月十四日を祭礼の日と定め、神輿を担ぎ、疫病や作物の病虫害などからの災いを守るため 農家一戸一戸を回りそれを祈願する御事が現在も行なわれている。 神輿は昭和四十七年に大修理をし、又御神輿のお仮屋も同年新築し現在に至っている。 例祭日 七月十四日 |
鐘楼堂 庶民の平和を願う神鐘は、文政十一年九月上旬の作と伝えられている。 この神鐘は昭和十八年第二次世界大戦の際に軍部の命令により供出を余儀なくされた。 そして終戦後、昭和二十八年頃社会情勢が落ち着く頃、昔懐かしき平和の鐘の音を 取り戻したい氏子の願いにより、昭和二十九年春に現在の神鐘が鋳造された 神鐘に高さ 120㎝ 直径 60㎝ 重量 301.5㎏ 一方鐘楼堂は昔からの藁葺で破損もい御実しくなったため、 昭和四十七年九月二十四日改築され現在に至る。 なお、文政十一年九月作に神鐘の彫字は戦中供出する時点に書写され 原文は次のように記されている。 掛畏左馬大明神者相陽鎌倉高座之鏡平流川遷左右仁宮柱太メン敷立七箇所之内に鎮り坐す 、一側の御神と而霊験殊に新たに然往右当社有之所鐘中津猶今般氏子致円情御当主御武運切中 蒼生子々孫まで安全祈耳、 千早振神遷綿娯 民分双方琉馬斯 安吉廼丹戻稲之 甫苔細<挃夫>楼徳門 小川敬道白 |